今年は明治維新のあった戊辰の年(明治元年(1868)) から数えて 130年。大河ドラマも「徳川慶喜」で、日本 全国で幕末維新関連のイベントが目白押しです。
幕末の京都で、過激派浪人の取締りのため働いた新選組 の創立メンバーには、この多摩地域の出身者が数多くい ます。例えば近藤勇は現在の調布市、土方歳三や井上源 三郎は現在の日野市域の出身です。また、この地の名主 や豪農といった有力者のなかには新選組の創立当初から 彼らを支援した人が少なくありません。いわば、多摩は 「新選組のふるさと」と言えるのです。
さて、今回は、保井寺(ほうせいじ)に墓のある、新選 組ゆかりの人物、斎藤一諾斎(いちだくさい)を紹介し ましょう。
京王堀之内駅から北東の方向に歩くこと約15分。小高 い丘を背にして立つ、龍澤山保井寺の本堂裏手の墓地に 斎藤一諾斎の墓があります。 斎藤は文化10年(1813)、江戸で幕臣の子として生ま れ、仏門に入り、はじめ秀全と名のっていました。
斎藤が甲州郡内強瀬(こわぜ)村全福寺の住職だった慶 応4年(明治元年)、戊辰戦争が始まりました。3月、 板垣退助率いる東征軍を迎え撃つため、近藤勇は新たに 甲陽鎮撫隊を組織して、江戸から甲府城を目指し進軍し て来ました。このとき、近藤たちから協力を求められて、 すぐに承諾したことから、斎藤は「一諾斎」を名のるこ とになります。一諾斎は還俗したのち新選組に入り、北 関東、東北地方での戊辰戦争にも参加しました。
降伏後の斎藤一諾斎のくわしい足取りは分かりませんが、 明治3年4月には、中野村(八王子市東中野)の熊野神 社の隣に当時あった金住院(きんじゅういん)に住んで、 村内の子弟に漢籍・習字を教えるようになります。中野 村ばかりでなく、近隣の堀之内村、大塚村(以上、八王 子市)、和田村(多摩市)などからも、一諾斎の教えを 受けに子弟が集まりました。一諾斎は、各村の寺院を足 場に、これらの子弟を教えていたようです。
その年の10月、斎藤一諾斎は、いったん中野村を去り、 都留郡宮谷村の正覚寺の住職になりましたが、まもなく、 ふたたび中野村に戻りました。
明治5年8月に明治新政府により学制が発布されたのに ともない、明治6年11月、中野村に生蘭学舎という学 校が設立されました。一諾斎はこの学校の建設に尽力し、 小谷田重助とともに訓導(教員)をつとめました。 それからまもなく、一諾斎は明治7年12月18日に、 62歳で病死し、彼を慕った子弟たちの手で、保井寺に 手篤く葬られました。
さらに明治14年11月、かつての教え子たちが中心と なり、斎藤一諾斎の顕彰碑が建立されました。この碑は いまも、御手の観音と呼ばれる清鏡寺(八王子市大塚) 境内にあります。碑に刻まれた発起人や協力者の名前の なかには、林副重、井上隆治、柚木芳三郎など、自由民 権運動にも関わり、地域の発展を志した人物の名が多く 見られ、少年期の彼らに与えた一諾斎の教えや人徳がし のばれます。
保井寺も清鏡寺も、南大沢〜聖蹟桜ヶ丘間を走るバス路 線を使えば、移動が簡単にできる距離にあります。ライ ブ長池から歩いても半日とかかりませんから、ぜひ、ど うぞ足を運んでみてください。
[追記]斎藤一諾斎について、保井寺副住職の藤浪保伸 さまから色々ご教示をいただきました。この場をお借り して御礼申し上げます。
(市内在住・矢口祥有里)