天正18年(1590)八王子城が落城すると、新た に関東の領主となった徳川家康は、甲斐武田氏の家臣だ った小人頭とその配下を、八王子城下の治安維持と甲州 道の警備のため、八王子へ配置しました。これが八王子 千人同心の始まりです。その後2度の増員を経て、千人 頭10人が率いる1000人の大部隊となったため、 「千人同心」と呼ばれるようになりました。
千人頭の下にはそれぞれ10人の組頭と90人(寛政 4年[1792]以降は80人)の同心がいて、1組が 構成されていました。千人頭は200〜500石の知行 を取る旗本ですが、組頭と同心は切米・扶持米を支給さ れる御家人の身分でした。
現在、JR中央線西八王子駅北側に「千人町」という 町名がありますが、ここに千人頭の屋敷と千人同心の組 屋敷とがありました。組屋敷に住む90人ほどの同心を 除いて、ほとんどの同心は八王子やその周辺の村に住み、 普段は農作業に従事して幕府に年貢を納めるという、農 民と変わらぬ生活をしていました。ごく簡単にいえば、 生活を支える主たるものは農業であり、家族の中の誰か が千人同心を勤めて幕府からサラリーをいただいてくる、 という具合です。
千人同心の公務の中で、最も重要なものが日光勤番で す。これは千人頭1人と1組の約半数の同心が、半年交 替で日光東照宮の火の番屋敷に詰め、山内の見回り、出 火の際の消火活動にあたるのでした。
また、寛政12年(1800)には、千人頭原半左衛 門胤敦が弟新介とともに、千人同心とその子弟100人 を連れて蝦夷地(現北海道)に移住し、開墾と北方の警 備にあたりました。彼らは白糠(現白糠町)や勇払(現 苫小牧市)に入植し、道路開削なども手がけましたが、 厳しい寒さと慣れない土地での農作業は、思うように収 穫も上がらず、結局多数の死者を出して、この計画は挫 折してしまいました。
現在、八王子市が苫小牧市・日光市と姉妹都市提携を 結んでいるのは、こうした千人同心の縁があってのこと です。
幕末の嘉永7年(1854)に作られた「番組合之縮 図」によれば、現在の長池地区周辺には、19番組に属 する柚木村の青木綱五郎、井上坤三、井上兵五郎、中里 弥兵衛、落合村(現多摩市)の小山初蔵という同心がい たことになっています。
千人同心の中には、『新編武蔵国風土記稿』などの地 誌編さんに加わり、地域の学問・文化の発展に寄与した 者も多く、『桑都日記』を書いた塩野適斎や蘭学者の松 本斗機蔵など、著名な人物も少なくありません。
やがて幕末になると、揺れ動く日本の政情にともなっ て、千人同心の近辺もにわかに騒がしくなります。相次 ぐ将軍の京都上洛のお供や賊徒追討のための甲州出兵、 開港地横浜の警備、長州征討への従軍というように、公 務が急増していきました。それまでの槍に代わって、銃 や大砲など西洋式の軍事調練が導入されていき、慶応2 年(1866)には「千人隊」と改称されました。
慶応3年(1867)、大政奉還により事実上徳川幕 府は崩壊しました。千人隊も解体することになり、千人 頭は徳川家に従って静岡へ移住、中には新政府に出仕し た者もいましたが、大多数は「脱武着農」、すなわち武 士を捨て農民になる道を選びました。今も八王子とその 周辺には千人同心の子孫が数多く住んでいて、貴重な古 文書や資料を伝えています。
(市内在住・矢口祥有里)