FUSION 郷土史勉強会 - 多摩の歴史をたずねて

多摩の歴史をたずねて

第7回 縄文ニュータウンから古代の工業地帯へ


縄文時代の遺跡の豊富さに比べて多摩ニュータウンの弥生 時代の遺跡はあまり見つかっていません。丘陵地帯で豊かな 森はあるものの水田稲作に適した平地が少ないせいでしょう か。ただ、弥生文化は西日本で発生し急速に伊勢湾沿岸にま で伝わりましたが、そこから東日本へ浸透するまでには,な お、300年の年月がかかりました。東京地域が弥生時代に 移行するのは紀元前後のころ、弥生時代が中期になってから でした。

弥生時代の中期から後期にかけて倭奴国王が後漢に朝貢し たり、卑弥呼が活躍したりしましたが、東京地域では周囲に 濠をめぐらせた環濠集落が形成されるようになりました。そ して、環濠集落の成立とともに方形に溝をめぐらせ、その中 央部に墓壙(ぼこう)を設けた「方形周溝墓」が出現します。 多摩ニュータウンNo.200遺跡(町田市)では、50基 の弥生時代の住居が分布し,丘陵からつきだした北側の支尾 根上に5基の方形周溝墓が並んでいます。方形周溝墓からは 七連につながった鉄釧(腕輪)やガラス玉、鉄剣などが出土 し、もてるものともてないものの差が確実に広がっていった ようです。

方形周溝墓は次の古墳時代になっても、しばらく作り続け られましたが、4世紀になると東京地方にも古墳が見られる ようになります。このころに大和朝廷の支配下におかれたも のと考えられます。やがて、大化の改新(645年)の頃に は、ここ多摩丘陵は一大窯業地帯となっていたようです。大 陸から伝わった技術で須恵器を生産していました。その跡は 八王子市堀之内のNo.446遺跡等に見られます。

奈良時代に入ると、大和朝廷は各地に国分寺を建てさせま したが、多摩丘陵からほど近い国分寺市にも武蔵国分寺が建 立されました。そして、国府が置かれこの地方の政治、文化 の中心をなすことになります。ここが国府に選ばれたのは、 太古より人々が住んだ豊かな土地であり、多摩川の両岸に一 定以上の文化があったことによるといわれています。国分寺 の瓦も多摩丘陵で生産されました。稲城市の大丸窯、町田市 小山のNo.944遺跡1号窯等が知られています。さらに 町田市小山の瓦尾根瓦窯では、相模国分寺の瓦も焼いていた そうです。同じ丘陵で双方の国分寺の瓦を焼いた珍しい例で す。

私達が住む多摩丘陵に窯業が発達した背景には、窯を築く のに適した地形とともに良質な粘土がとれ、燃料となる大量 の薪が確保できることがあげられます。また、薪が確保でき るということは豊かな森があったことを示します。そして、 窯業とともに、多摩丘陵は木器の生産にも重要な位置を占め ていました。例えば、No.107遺跡では奈良・平安時代 の木器が大量に出土しました。木工轆轤(ろくろ)で挽き出 された皿には、焼印で「官」や「位」などの文字が記された 例も多いとのことです。多摩丘陵は古代の国家を支える工業 地帯として重要な地位を占めていたようです。そのような遺 跡の上に我々17万市民が生活する新都市が形成されたこと は、たいへん興味深いことです。

<参考文献>
・東京都の歴史 −児玉 幸多監修−
・牧場のおっさんホームページ
・多摩丘陵の遺跡 −東京都埋蔵文化財センター−

(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純