FUSION 郷土史勉強会 - 多摩の歴史をたずねて

多摩の歴史をたずねて

第8回 律令制度下の暮らしと次代への胎動


律令制度下の租税は租・庸・調からなっていることは皆さ んご存知だと思います。租は稲、庸は労役にかえて納める物 資、調は租以外の生産物をそれぞれ徴収しました。多摩地方 の調としての貢物は、次の歌にあるように繊維製品が主であ ったようです。

多摩川に さらす手づくり さらさらに
         何ぞこの児の ここだ愛しき

この歌は万葉集の「東歌」に出てくるもので、多摩川のほと りに暮らしていた農家の娘たちが多摩川で布をさらして漂白 していた様子が彷彿とされます。

これらの租税の徴収は当時の人々にとって決して楽なもの ではなかったと考えられます。しかし、人々を最も苦しめた のは防人の制度でした。北九州地方で西海の防備にあたる防 人は、いつ帰れるかわからず、しかも、大半は東国の兵(兵 役によって徴兵された人々)をもってあてられました(一説 によると逃げ出しても言葉の訛りですぐわかるためといいま す)。徴兵されると難波津までの食料は自前で持っていかね ばならず、家族構成によっては、働き手を取られて一家の生 活が破綻することもあったようです。東国の窮状から防人制 度は757年に廃止されますが、次には対蝦夷対策に狩り出 されることになります。兵役だけでなく、多量の米などが陸 奥・出羽に納入され、そのほとんどは東国にのしかかりまし た。しかし、国郡司がこれらの米を横領して私腹を肥やした り、徴兵された兵を使って私田を開墾したりし、さらに東国 の疲弊と合わさって律令制度は破綻に向かっていました。

この頃、多摩地方には御牧と呼ばれる牛馬の生産地があり ました。931年には小野牧が御牧に指定されました。小野 牧は八王子市由木地区付近に求めようとする説があるそうで す。古代の牧は単なる放牧場ではなく、厩舎や各種の建物、 工房、あるいは付属する牧田などからなる一大施設群であり、 各種の役割を持った人々が働いていました。こうした牧を管 理する別当は、やがて在地に強い力をたくわえていきます。 前述した律令制度の破綻をバックに、在地にたくわえた力で 次代を担っていくことになります。

<参考文献>
・東京都の歴史 −児玉 幸多監修−
・八王子市の歴史 −樋口 豊治 著−

(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純