FUSION 郷土史勉強会 - 多摩の歴史をたずねて

多摩の歴史をたずねて

八王子に律令制はおよんでいなかった?!
武蔵武士の登場


律令制度下の八王子はどのような状況にあったのでしょう か? 近年、律令制による治安は京都周辺で保たれたにすぎ ず、地方には律令制はおよんでいなかったため、治安という ものはなかったということがわかってきました。八王子のあ る武蔵国はとくに治安の乱れがひどく「凶猾党を成し、群盗 山に満つる」という状態でした。地方では律令制による治安 などは初めから保たれてはいなかったということです。

そのため、自分で開墾した田地を守るために誰もが自衛し なければなりませんでした。自衛するとは武装すること、騎 馬用の馬を確保することでした。ここ多摩丘陵には国家が直 接に経営する牧(勅旨牧という)の一つ、小野牧があったと いう説(八王子市南大沢の谷にあった:段木一行氏説)があ ります。この小野牧の管理者(別当)は自衛のための馬や武 器を手に入れることができ、武士の原姿と考えられます。実 際、この別当は武蔵国一の宮の小野神社(日野市)辺りを拠 点とした小野氏で、武蔵七党の一つ、横山党の祖先にあたり ます(後に横山荘(八王子市)の開発を進めて横山の名を名 乗りました。横山党は椚田、平山、田名、海老名氏等々の一 族を八王子市、日野市などの多摩川流域、神奈川県の相模川 流域に分出しました)。

このように、牧と開墾地を背景に地域の有力者が武士化へ の道を歩んでいったものと考えられます。そして、939年 中央の地方政治への無関心、国家支配の強化・圧迫への反抗 という平将門の乱が起こりました。この乱で平将門は下総国 に政権を建てましたが、翌年戦死し政権は崩壊してしまいま した。しかし、この政権は武人政権のさきがけと位置付けら れ、中世社会への芽生えとも考えられるものです。律令国家 の支配制度は徐々に衰退していったのです。

その後、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年) が起こり源氏が勢力を失い、世は平氏の時代となりますが、 保元の乱では横山党を中心とする武蔵武士が活躍しました。 しかし、平治の乱では源氏は敗れ、源氏配下の武蔵武士は国 へ帰り、武技を練りチャンスが来るのを待つことになりまし た。この2つの乱の結果、平家全盛の時代を迎え、武士の力 が政治に大きな影響を与えるようになります。ちなみに平清 盛の経済基盤は武蔵国の知行国(国務執行権を持つ国)から の税収がその一つです。しかし、平清盛が武蔵国にやってく ることはありませんでした。

1180年、平氏打倒を目指し、源頼朝が挙兵しました。 当初、事態を静観していた武蔵七党も後に源氏側につき、鵯 越(ひよどりごえ)の合戦では平家物語にもその様子が記さ れているほどの活躍をしました。昔から牧などで騎馬の調練 には長けていたため、騎馬での合戦に活躍したようです。

1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時 広は軍功により横山庄の所領を保証され、また、横山氏の女 を母とする梶原景時は元八王子村に所領を与えられるなど、 八王子周辺は頼朝政権の所在地である鎌倉の防衛基地の一つ となりました。

<参考文献>
・東京都の歴史 −児玉 幸多監修−
・八王子市の歴史 −樋口 豊治 著−

(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純