その昔、猿丸峠とも呼ばれた野猿峠、現在は野猿街道が通り 車で簡単に走りすぎることができます。この野猿峠のふもと、 今の由木中央小学校のすぐそばに永林寺があります。以前は、 永麟寺と号していましたが、徳川家康がこの寺の林の見事さに、 「名に負う永き林なり」と誉めたことから、この寺を永林寺と 呼ぶようになったということです。由木音頭の一節に、
武士は定久 男は勘解由(かげゆ)
寺は武蔵野、武蔵野、永林寺
ホンニ、ソレソレ 永林寺とあるように、永林寺は滝山城の城主大石源左衛門定久(大石 氏十三代目)が1538年に建立しました。ここ由木には永林 寺をはじめ、大石氏の遺構といわれるものがいくつか見られま す。今回は大石氏の時代を見てみましょう。
大石氏は信濃国大石郷(長野県南佐久郡八千穂村大石)の住 人でしたが、大石氏七代目信重が関東管領上杉憲実(山内派) に属し、延文元年(1356)入間、多摩両郡に十三郷の地を 与えられ、武蔵目代(国守に替わる私的代官)・武蔵守護代 (赴任しない守護に替わって実務を代行する代官)に任命され て多摩の地に支配を及ぼすようになりました。大石氏はこれら の職を三代にわたり十五世紀前半まで引き継ぎました。
十四世紀後半の関東地方は南北朝の時代で鎌倉公方と昔から の領地を掌握する諸豪族とが対立する場合も多くその政治状況 は複雑をきわめました。また、一揆も多く、中でも武州南一揆 は船木田荘を有名無実の荘園にしてしまいました。この一揆に は八王子の梶原氏もその中核的存在として一揆集を率いていた と考えられています。先の大石氏もこの武州南一揆を利用して いたふしがあります。実際、船木田荘を横領されることは武蔵 守護代としては領地の経営ができなくなることになりますが、 これを黙認していたと見られるのは、武州南一揆と通じていた からだと思われます。この頃の武士の行動基準とは、「一所懸 命(もらった一ヶ所の土地を命に懸けても守ること)の地」の ためには変わり身の早さも必要であったということです。
信重以降の大石氏は主な居城を関東地方西端に築きました。
・八代目 大石憲重:八幡山城(埼玉県児玉雉ヶ丘)他
・九代目 大石重仲:大石館(飯能市仲居)
・十代目 大石房重:八幡山城?
・十一代目 大石顕重(信濃守):高月城、松本城(八王子)
・十二代目 大石定重:滝山城
・十三代目 大石定久:永林寺城(現在の永林寺の裏山)十一代目信濃守は高月城を築くまでの間、松木の大栗川東岸台 地上の居館にいたといわれ、その一部が遺構として残っている とのことです(筆者、一度探索しましたが、未発見)。また、 その屋敷にあったと言われるサルスベリが八王子市指定文化財 天然記念物になっています。信濃守の高月城には当時の最高の 文化人が訪ねて来ました。一人は京都聖護院門跡の道興准后、 もう一人は禅僧の万里集九でした。当時、大石氏は八王子市域 を本拠地として府中市、あきるの市、所沢市、飯能市にわたる 広大な地域を支配していた実力者だったからに他なりません。
しかし、勢力をはった大石氏も北条氏康の力を無視せざるを 得なくなり、大石定久は氏康の子、氏照を養子に迎え、自らは 多摩郡戸倉(あきるの市五日市)に隠退しました。気骨はあっ ても北条氏に比べれば小物の大石定久としては、こうするほか 生き残る道はなかったのでした。隠退後の大石定久は入道して 真月斎道俊となり、永林寺で亡くなった家来の菩提を弔ってい ましたが、天文18(1549)年、腹かき切って相果てたと 伝えられています。その後の大石氏は武蔵豪族の権威を保てず、 北条氏の家臣団に組み入れられました。世は戦国時代を迎えて いました。
<参考文献>
・東京都の歴史 −児玉 幸多 監修−
・八王子市の歴史 −樋口 豊治 著−
・八王子辞典 −相原 悦夫他 著−
・由木音頭解説 −由木音頭保存会発行−(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純)