FUSION 郷土史勉強会 - 多摩の歴史をたずねて

多摩の歴史をたずねて

徳川家康の領国経営と大久保長安


戦国時代、小田原北条氏が関東地方に大きな勢力を張ってい ました。前号で述べた通り、由木地区を治めていた大石氏も北 条氏の家臣に組み込まれてしまいました。しかし、その北条氏 も時の勢力者豊臣秀吉には勝てず、天正18年(1590)に小田原城 を落とされ滅んでしまいます。北条氏は5代96年間関東地方を 支配しましたが、そのときの多摩地域の中心は八王子でした。 北条氏照が城主の滝山城、八王子城を中心に今の府中の町や青 梅、八王子の町などが治められていました。

ところが、北条氏に代わり関東へ来た徳川家康は八王子や小 田原ではなく、江戸を根拠地としました。これは、小田原では 後背地がなく発展性に乏しく、八王子は内陸で水上交通の便が よくないためと考えられます。それに対して江戸は後背地に関 東平野を持ち、ここの灌漑、治水に成功すれば大きな農業生産 地になることが期待できます。このように考え徳川家康は江戸 を根拠地にしたのでした。

では、家康はどのように関東地方を治めたのでしょうか。図 は家康関東入国当時の大名の配置です。北関東地方には豊臣系 の大名が多いため、一万石以上の自分の家臣を利根川沿いに配 置し軍事態勢を整備しました。また、多摩を含む今の埼玉から 東京、神奈川の地域は幕府直轄領(天領)として代官が治める 形にしました。代官はその土地の事情をよく把握してその地域 の殖産興業を担当しました。代官というのはテレビドラマの悪 役の代名詞のようですが、そうではなく民政を中心としたテク ノクラート、つまり有能な技術官僚のことなのです。しかも家 康は八王子には甲州系の代官をおきその下に在地の土豪を加え て開発していくという仕組みを取りました。その八王子代官に 登用し多摩の開発にあたらせたのが大久保長安です。大久保長 安は甲斐武田氏の家臣で、猿楽師から出世した人でした。大久 保長安はさっそく八王子の小門陣屋に入り(1590年)町づくりに 着手しました。現存する資料では長安のもとには15人の代官が いて、それぞれが北関東から甲信越まで行って治水工事を指導 していたことがわかります。また、これらの代官は民政官のた め八王子千人同心をおき、甲斐に対する軍事的な備えとしまし た。八王子千人同心もまた大久保長安の支配下におきました。 このように八王子は多摩の開発だけでなく関東の開発の中心と なっていました。家康は多摩を江戸城を支える重要な後背地に していこうと考えていたため、多摩の開発を八王子代官を中心 とした代官主導型ですすめていったのです。

大久保長安は代官頭として関東から甲信越、さらには美濃や 石見も治め、佐渡や伊豆の金山で実力を発揮しました。しかし、 その死後、金銀隠匿、幕府転覆の陰謀発覚等の理由により遺子 7人が死罪になるという仕打ちを受けましたが、長安の坐像の ある佐渡相川では長安の汚名をそそぐとともに、鉱山町づくり の柱にしようとしているとのことです。

<参考文献>
・八王子市の歴史 −樋口 豊治 著−
・多摩の代官  村上直、馬場憲一、米崎清美 共著

(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純