FUSION 郷土史勉強会 - 多摩の歴史をたずねて

多摩の歴史をたずねて

八王子千人同心と八王子文化


前号で八王子千人同心について触れましたが、近世八王子地域 の文化や開発にはたした彼らの役割には注目すべきものがありま した。当初こそ軍事的な役割を主体とした千人同心の業務も、や がて、将軍上洛や日光社参のさいの供奉、蝦夷地(北海道)の開 発、地誌編纂等に変り、とくに同心たちは八王子周辺の農村に住 みついて農耕に携わり、半農半士の生活を営んだとのことです。

文化・文政期(1804〜30)には甲州街道有数の宿場町八王子は 織物の集散地として地域経済の中心的地位を占めた上、江戸から 十里以上もはなれて幕府の統制や監視をまぬがれたため、地域文 化は興隆の勢いにありました。当時の八王子千人同心には、「武 蔵名勝図会」を昌平黌(こう、黌は学校の意)に献上した植田孟 縉(もうしん)、「新編武蔵風土記」を著した原半左衛門、「桑 都日記」(正編)著者塩野適斎(てきさい)など八王子地方の文 化興隆に一役も二役もかった人がいました。

さらに、八王子の蘭学興隆に大きな影響をもたらしたのも八王 子千人同心に負うところが大きいといえます。松本斗機蔵(1795 〜1841)は千人同心としては最高の知識人で、彼の著書「献芹微 衷(けんきんびちゅう)」では、海外事情の研究から海防の政策 を提言しました。当時国交を開くことは国益を損するという鎖国 状態の中で「海防を厳しくして、イギリス、ロシアと貿易せよ」 との彼の主張は注目すべき提言でした。蘭学が多摩地方に伝えら れたのはシーボルトが長崎に来航した文政6(1823)年のころで あり、千人同心の漢方医・伊藤猶白、小谷田子寅(しいん)らが 蘭学研究の先鞭をつけています。この二人に続いて本格的に蘭方 を修行したのが、町医者・秋山義方です。義方は初め古医方を学 び、40歳前後になって江戸に出て蘭方を学びました。そして、 八王子子安町(現、万町)で蘭方眼科を開業するかたわら蘭書な ども復刻しました。皆さんも名前を聞いたことのある蘭学者の高 野長英も天保2(1831)年には門人とともに義方の家に数日滞在 しています。このとき義方の長男・左蔵は16歳、高野長英から 強烈な刺激を受けたであろうことは想像に難くありません。この 左蔵はやはり千人同心の組頭で、眼科の父に対し、内科で身を立 てたばかりでなく、ドイツの医学書をオランダ語に翻訳し、活字 製造から手がけて印刷出版したという幕末の文化史上偉大な業績 を残しました。

このように八王子に在住する千人同心は多摩地域における開明 的な存在だったのです。では、なぜ八王子でこのような文化の発 展が見られたのでしょうか?

などにより、新しい技術、文化に対する感度が高く、それを受け 入れる素地があり、さらに発展させる人物もいたと考えられます。 幕末の一時期、由木村鑓水で生糸の豪商が出たというのも、時代 が下って自由民権運動が活発だったことも、文化・文政期の文化 発展と無関係ではなかったと思います。この流れが現在の八王子 にも受け継がれているのでしょうか? ぜひそうあってほしいも のだと思います。

<参考文献>
・八王子市の歴史  樋口 豊治 著
・八王子技術文化史ノート  飯田 賢一 著

(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純