「南津(なんしん)電気鉄道ができていたら現在の京王相模 原線はなかったでしょうね。」 これは鑓水の郷土史家・故小 泉栄一さんの言葉です。
南津電気鉄道は大正12年の関東大震災で東京府浅草区を焼 け出され故郷鑓水に帰った大塚卯十郎氏の呼びかけに応じた、 当時由木村収入役の大塚嘉義氏が旗揚げし会社を設立したもの で、玉南電気鉄道(現・京王電鉄)の関戸駅(現・聖蹟桜ヶ丘) 西方の多摩一の宮を起点に由木村を横断、相原村橋本(現・相 模原市橋本)を経由し津久井郡川尻村(現・城山町)久保沢に 至る20km弱の私鉄です。由木村内は野猿街道、柚木街道に 沿って敷設される予定でした。この鉄道の建設目的は路線を東 京につなげることで沿線農村の開発を促し、相模川の良質な砂 利や津久井郡の天然産物を搬出することでした。当時は関東大 震災後の建設ラッシュで東京近辺では砂利採取の鉄道がいくつ も開通(小田急、JR南武線、玉南電気鉄道等)していた時期 でした。
大正13年12月3日由木村鑓水の永泉寺で「南津電気鉄道 株式会社」の設立協議会が開かれ、設立委員長は林副重氏、常 務委員は大塚嘉義氏で以下50余名の出席者全員一致で設立準 備にかかることが決められました。そして、鉄道省への申請を 経て大正15年の認可までの間、村の有力者たちはよるとさわ ると鉄道の話になったとのことです。当時、由木村周辺では前 述の玉南電鉄、相模原の相模鉄道、同じく相武電鉄などの建設 の話があり、沿線予定地の人々がそれぞれの会社へ出資しわが 村への敷設を願っていました(図参照)。とくに津久井町や城 山町の人々の鉄道に対する思い入れは強く、現在でも多摩モノ レールの延伸を願望したりとの話を聞きます。
さて、大正15年11月認可がおりますが、その直後玉南電 鉄は京王電軌に合併し軌間を1372mmに変更してしまいます。南 津電鉄は軌間1067mmのため、玉南電鉄への乗り入れが不可能に なってしまいました。そこで、別のルートでの東京乗り入れを 図るべく、多摩一の宮の対岸から国立駅へ敷設しようとしてい た「東京多摩川電気鉄道」との乗り入れを画策し昭和2年1月 に国分寺までの延長を申請します。これは、多摩川の砂利採取 も目論んだ計画だったようです。
南津電鉄の株主は沿線の農民が主で一株株主も多数いました。 昭和2年4月の金融恐慌は東京・横浜の企業にも大波及し近郊 農村の現金収入源である養蚕業にも大打撃を与えました。南津 電鉄の株主には一株5円の出資も厳しくなるという最初のつま ずきでした。しかし、なんとか工面をし、資金調達ができ昭和 3年10月21日、鑓水の本社及び川尻村の川尻停車場予定地 で起工式が行われました。夜には大塚山の道了堂で花火を上げ て祝ったとのことです。また、同年11月10日は昭和天皇の 即位を祝う御大典記念日で、南津電鉄でも「御大典記念鑓水停 車場」の碑(写真右端)を作り駅予定地に据え付けました(現 在は絹の道資料館の先に移設されています)。昭和4年に入る とそこここで基礎工事が始まり順調にいくかに見えました。し かし、農村不況の深刻さは想像以上であり、株金の徴収も思う にまかせず工事費の支払いにも事欠き、ついに5月末には工事 中断となってしまいました。さらに昭和4年10月の世界恐慌 で生糸相場が60%以上も値下がりし、農村の株主たちは株金ど ころではなくなったことも追い討ちをかけました。
大塚嘉義氏は田畑や山林など私財を投げ打って工事再開の努 力を続けますが、東京の関東大震災からの復興が昭和5年3月 で区切りをつけられると砂利採取による利益確保のてだても立 ち消えになり、いよいよ会社復活さえも困難になってきました。 そして、昭和9年6月会社解散の許可が鉄道省からおり、「南 津電気鉄道株式会社」の存在は一切消えてしまったのでした。
南津電鉄が今もあったとしたら、多摩丘陵はもっと違った形 の発展を遂げたかも知れません。しかしながら、半世紀以上も 前に地域の発展のために鉄道を敷くことに情熱を捧げ、そのた めに私財を投げ打った人がいたことには敬意を表します。当時 の人々が今日の京王線や小田急線の走るさまをみることができ たら感慨一入ではないでしょうか。
<参考文献>
・幻の相武電車と南津電車(サトウ マコト著)
・旺文社 日本史事典(歴史教育研究所編)
・知られざるニュータウン・ストーリ−(多摩ニュータウンタイムズ記事より)(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純)