FUSION 郷土史勉強会 - 多摩の歴史をたずねて

多摩の歴史をたずねて

玉川上水の通船と甲武鉄道


現在、緑の散策路としても親しまれている玉川上水は江戸時 代、町方の生活の安定のために整備されたものですが、その玉 川上水に明治の初め船が通っていたことがあります。今回はそ のあたりの状況を見てみましょう。

明治3年5月28日に羽村から内藤新宿までの通船許可が下り、 船による荷物の搬送が開始されました。当初6艘だったものが 翌4年10月には 104艘になり、また、明治4年6月には小河内 村から羽村までの多摩川の通船が許可になりました。これによ り、青梅から内藤新宿までの直通便が開かれ、最盛期には一ヶ 月で2500トンの輸送能力があったとのことです。船で東京へ運 ばれたのは砂利、石灰、野菜、茶、織物、薪、炭、また甲州や 信州のぶどう、たばこなどの産物であり、東京からは米、塩、 魚類などが運ばれました。それまで荷駄で運ぶと銀5匁の炭が 銀60匁にもなっていたのが、船による大量輸送で安く運ぶこと ができるようになりました(運賃として約30分の1まで格差が ついた)。そのため、運送をあきらめていた甲州や信州の物産 の東京輸出の道が開かれたと言われました。

しかし、飲用水路に船を通すという常識的には考えられない この通船は、上水事務の所管が大蔵省土木寮という国の機関に 属していた期間にのみ許されたもので、その所管が東京府に戻 ったのと同月の明治5年5月30日には「上水不潔ニ至リ」とい う理由で通船停止になります。船主たちは上記大量輸送による 利益のため(明治16年「東京四ツ谷口運送河利益予算調書」に よると約33万円の利益が見込まれた)、再三にわたり再興を要 求しますが、遂に再開されることはありませんでした。

しかし、指田茂十郎らが前述の「東京四ツ谷口運送河利益予 算調書」を書いて通船に最後の望みをかけていたころ、銀座二 丁目の滝沢久武、服部九一が玉川上水に沿った新宿〜羽村間に 馬車鉄道の敷設を計画し、東京府に堤防の敷地使用を願い出て います。これは許可にならなかったようですが、その後、通船 を出願し続けていた指田茂十郎らに意見を求めたりして明治17 年4月22日に甲武馬車鉄道会社を設立しました。この会社は新 宿から八王子までの馬車鉄道敷設を出願し、明治19年11月13日 に許可されています。ただし、そのルートは今の中央線のよう に直線ではなく、新宿から西南西に進み永福町近くの大宮八幡 で西北に折れ西荻窪を経由保谷付近から小平、小川、立川市砂 川町、昭島市福島町で多摩川を渡り、八王子市石川町、八王子 駅と経由するものでした。

この馬車鉄道の許可を見て、指田茂十郎は武甲鉄道会社を設 立し「鉄道設置願」を提出します。しかし、そのルートは甲武 馬車鉄道会社のものと重複するものでした。この結果、武甲鉄 道は甲武鉄道に合同することになりました。これにより甲武鉄 道敷設事業が本格的に動き出し、明治22年4月11日に新宿〜立 川間(中野・境・国分寺に駅を設置)が、8月11日に立川〜八 王子間が汽車鉄道として開通して完成をみます。これにより通 船での物資の輸送が鉄道に代わり、玉川上水への通船の問題は 解決されました。

甲武鉄道のルートは東中野から立川まで直線ですが、もとは 街道沿いに建設される計画だったそうです。ところが、甲州街 道沿いでは、高井戸、調布、府中、青梅街道沿いでは田無とそ れぞれの地元町村の反対で流れてしまいました。このときに蒸 気鉄道の誘致に乗り出したのが、境村、国分寺村、立川村柴崎 等の武蔵野開拓地主たちでした。甲武鉄道も八王子と東京を結 ぶことが目的で途中のルートは問わないという姿勢だったため、 野と畑と森林のまっただ中をまっすぐに蒸気機関車が走ること になりました。

<参考文献>
・多摩百年の歩み(多摩百年史研究会編著)
・東京都の歴史(児玉 幸多監修)
・市民のための八王子の歴史(樋口豊治著)

(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純