FUSION 郷土史勉強会 - 多摩の歴史をたずねて

多摩の歴史をたずねて

野猿峠と野猿街道

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[府中四谷橋]
左が八王子方面、右が国立府中IC方面です。多摩川に架かります。(撮影:田中純)

皆さんが八王子へ行かれるときは、野猿街道を使うことも多 いかと思います。野猿街道は今でこそ片側2車線の広い道路で スイスイと走っていけますが、その昔の野猿峠は今よりも急傾 斜の道で越えるのに苦労をしたそうです。今回は私たちに身近 な野猿街道・野猿峠のお話をしたいと思います。

野猿街道は八王子事典によると「八王子市と多摩市を結ぶ道 路。JR八王子駅南口より京王北野駅をへて野猿峠を越え、由 木地区を縦断して多摩市一の宮(聖蹟桜ヶ丘駅近く)で川崎街 道と合する。」とあります。ただし、現在は川崎街道をアンダ ークロスし府中四谷橋で多摩川を越え、国立府中IC付近まで つながっています。全線片側2車線の、車にとっては走りやす い道となっています。財団法人・日本地図センター発行の地図 で見る多摩の変遷で、京王堀之内〜南大沢の道路事情をみると、 多摩ニュータウンができるまでの間、野猿街道が多摩丘陵外部 との行き来のために大きな役割を果たしていることが見て取れ ます。大栗川の作る谷あいを大栗川につかずはなれず沿って、 多摩一の宮から山間へ分け入っていく、というのが筆者の持つ その昔の野猿街道のイメージです。


[馬の水飲み場]
石の物体が「馬の水飲み場」です。野猿峠のバス停そばにあります。奥側のたての面に猿の彫刻があります。(撮影:田中純)

ところで、由木地区から八王子へ行くには野猿峠を越えて行 くことが多いと思います。戦前の由木村の人々も同じように八 王子へは野猿峠を越えて行ったとのことですが、野猿峠は現在 はかなり切り下がった状態で昔はもっと道が険しかったようで す。そのため、ゼンジ丸という柿を出荷するとき荷物が重くて 野猿峠を越えられないので、わざわざ高幡橋を渡り、浅川沿い に平山へ行ったそうです。これだけ険しい道だった名残が現在 の峠頂上のバス停わきに残っています。石を刻んで作った馬の 水飲み場です。馬も人もここで一息入れて峠を越えて行ったの でしょう。

ところで、この野猿峠という名称の由来は何でしょうか。 「武蔵名勝図会」によると、猿山領 猿山峠とも号す。・・・ 嶺上のまた高き丘に、大石道俊(道俊は大石定久の法号、晩年 永林寺−野猿峠の下柚木側の麓−に住んだ)の碑石があり。或 云大石定久入道遺命して、この嶺上に着具の甲(かぶと)を埋 めて碑石を建てけるゆえ、往古は甲山峠と唱えけるが、その後 甲を申に書きたりければ、サルと読み来たれるより転じて読み やすき猿という文字になりけると云。・・・そして、猿山峠と 呼ばれるようになったらしいのですが、江戸時代末ころにはさ らに転じて猿丸峠と呼ばれていたようです。大正12年の南多 摩郡史八王子地図には猿丸峠との記載となっており、打越八幡 神社の昭和3年の道路大改修碑にも猿丸峠となっているため、 野猿峠となったのはそれ以降のことと思われます。国土地理院 の地形図に野猿峠の名前が登場するのは昭和28年の版からだ そうです。この頃、京王電鉄で峠周辺にハイキングコースを整 備し、初めて「野猿峠」という名前を使ったと言われています が、京王電鉄が名付け親だという確証はないようです。地図で 見る多摩の変遷の昭和26年の地図には野猿峠に手の平松とい う記載があります。昔は山上すべて松樹たてり(風土記稿)と いう景観で、野猿峠には手の平松と呼ばれる大樹があり、眺望 の勝地だったということです。

昭和40年頃でも大型車がやっとすれ違える程度の道幅しか なく、両側の谷戸の谷間は深く、転がり落ちるのではないかと 怖いほどの道だった野猿峠ですが、現在は道路の拡幅や宅地開 発などで昔日の面影は薄れてしまいました。それでも、夕刻、 八王子から野猿街道で帰ってくるとき遠くに別所地区の街灯り が見え、帰って来たと実感するのは峠を越えるからなのかも知 れません。

<参考文献>
・八王子事典(八王子事典の会著)
・野猿峠(下島 彬著)
・「多摩の昔のくらし」
 峰岸松三さんの語る戦前までのくらし
 〜2000年10月28日トムハウスまつりにて
・ぽんぽこかわら版(No.30) 多摩の歴史をたずねて(田中 純)

(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純)