地活隊 - 多摩の歴史をたずねて

多摩の歴史をたずねて

多摩ニュータウン開発前夜


私たちの住む多摩ニュータウン、この街並みができるまでに どのようなことがあったのか、昔はどのような土地柄であった のか、これから数回にわたり、「多摩丘陵のあけぼの」(横倉 舜三著)等を参考に探ってゆきたいと思います。今回は”多摩 ニュータウン開発前夜”と題して開発前までの様子を見てみま しょう。

多摩丘陵は八王子市の南西端を起点として、多摩川と境川の 間をしだいに幅を広げながら東南にのびる丘陵の総称です。こ の中で、八王子市、多摩市、稲城市、町田市にまたがる一大住 宅都市が多摩ニュータウンです。その多摩丘陵もニュータウン 以前は、丘陵のいくつもの谷間に点々と住まいがある静かな山 村といった風景でした。

この多摩丘陵に人々が住み始めたのは旧石器時代のことだと いわれています。その後縄文時代には、八王子市堀之内にある No.72遺跡群(200軒もの竪穴住居跡が見つかった)に代表され るように集落が最も発展しました。奈良時代には、府中の国分 寺や相模の国分寺の瓦を焼いたりと古代の工業地帯として発展 したりもしました。多摩丘陵に住む人々はその時々の政治や環 境に適応しつつ、森や田畑を守り、伝え続けてきました。

開発前の多摩ニュータウン区域内の農家は 800戸近くにのぼ っていたものと思われます。そして、田畑の隅々まで人の手が 入り、雑木林の1本1本の木にも人の手がかけられ、多摩の風 景を作り出してきました。とくに横倉氏の住んでいた落合、唐 木田のあたりは純朴な農村風景が広がっていたそうです。そし て、慎ましくも安定した農業の継続がこの地域の人々の願いだ ったのではないでしょうか。

この丘陵に住む農家の人たちにとって戦前戦中を含め、現金 収入の道は夏は養蚕が大半を占めていました。桑の葉が使える 間は何回となく蚕を育て、夏場は休むことがなかったといいま す。冬場は、山で薪切り、炭焼き、女性は糸採り、機織りなど で現金収入を図っていました。ただ、戦後は生糸の需要は減り、 また、燃料としての山林も灯油にとって替わられ、現金収入の 道も先行きの不安感が大きくなってきました。その頃(昭和20 年代)の落合地区(現在の多摩市落合)の農作業は、丘陵とい う地形の問題をかかえ、山間や丘の上の段々の畑、谷戸の田ん ぼでの作業となり、畑はほとんどが傾斜地で、街に出回ってい たオート三輪などの車があったものの、この土地では役に立た ない状態でした。手元にある昭和26年の地図で唐木田付近を見 てみると、幅2mほどの道路に沿って集落が続き、両側の山に は人家のそばには桑畑が、人家から離れていくと手入れされた 雑木林が広がり、谷戸には田んぼがあるという風景で、畑や田 んぼには車の入れる道はありません。そのため、収穫物は全て 背中や肩に背負って運ぶしかないという状態でした。なんとか してこの状態から脱したい、この耕地に道路を作り、生産を上 げたい、そして、安定した農業を続けたい、というのが当時の 人たちの偽らざる心境だったのではないかと思います。

こんな背景の中、戦後という時代の変わり目に当時の若者に 今後の地域を任せようという気運が生まれ始めていました。そ こで動き出したのが農業の近代化の動きでした。それは、酪農 であったり、養豚、野菜作りだったのです。ところが、農業の 近代化には農道の整備から農地改良、機械化など経費がかかる ことになります。この経費をまかなうための資金繰りが山林の 一部を売却することにつながっていきました。売却した山林に はゴルフ場が建設され、昭和30年代にはゴルフ場の建設ラッシ ュを迎えました。ゴルフ場開場後はコース管理やクラブハウス 要員として多くの人々が働くこととなりました。農業近代化の ための山林売却が必ずしも農業の近代化にはつながらず、安定 した農業の継続という人々の思いにそった形にはならなかった、 このような中、昭和36年から多摩ニュータウンの開発を迎える ことになります。

<参考文献>
・多摩丘陵のあけぼの(横山 舜三著、多摩ニュータウンタイムズ社発行)
・連載 多摩ニュータウン(横山 舜三著、多摩ニュータウンタイムズHP)
・地図で見る多摩の変遷(財団法人 日本地図センター発行)

(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純)