地活隊 - 多摩の歴史をたずねて

多摩の歴史をたずねて

初めてバスが通った日
〜多摩村昭和31年〜


今回は多摩ニュータウンが出来る前の多摩市(当時の多摩村) の交通の様子を見てみます。

京王堀之内や多摩センターから聖蹟桜ヶ丘へ行くのに今は車 で20〜30分で行けますが、今から40年以上前の多摩村(当時) では夢のような話でした。当時、村の中央部といわれた、関戸 橋から熊野神社、村役場を通り、乞田、落合へ通じる都道(ほ ぼ現在の多摩ニュータウン通りに重なります)がありましたが、 その道にはバスも走っていませんでした。当然、自家用車も普 及していませんから、例えば役場の人が都内に出る場合などは 駅までの間は歩いていくことがほとんどでした。自転車も一軒 に一台か二台の時代でしたから、村の中央部にバスを通すこと は村民の願いでした。

昭和26年の地図を見ると、前述の道は都道ではありましたが、 幅は4mで砂利道であり、しかも両側が水田で地盤の弱いとこ ろもありました。バスを通すには幅4mでは他の車(オート三 輪や馬車)とのすれ違いができないため、警察は難色を示して いました。しかし、村には桜丘から落合までバスを通さなけれ ばならない理由がありました。それは、多摩中学校が関戸橋の 東側に移設され、通学区域である落合地区の生徒に対して何ら かの対応をしなければいけなくなったためです(落合から関戸 橋まで約6Km)。

昭和22年、多摩村に中学校の設置を決めましたが、当初は現 在の多摩市公民館の位置にあった多摩小学校の教室を借りて開 設されました。この多摩中学校が自前の校舎を持つためにいろ いろな場所が検討され、当然、村の中央部にもってくるべきだ という意見もありました。しかし、用地の確保が難しく、前述 の場所に移設することになり、その条件としてバスを通すこと が約束されました。当時の中学生は農村の農作業や家事の重要 な担い手でもありました。そのため、通学に時間がかかること は家庭が中学生の労働力を当てにできなくなることを意味しま した。

ちょうどこの頃、村会議員になった横倉舜三氏は中学生の通 学問題を解決するため、村長とともに警視庁へ陳情に行き、実 情を説明し、地元の困窮を理解してもらうことに努めました。 この行動が功を奏し、警視庁の交通課長らが多摩村の道路事情 の実地調査に来ることになり、関戸橋から村役場、乞田、落合 の道を調査しました。このときは、すでに警察としては、バス を通すためにはどうすればいいか、という観点からの調査だっ たようで、待避所の設置場所やバスの運行について実際の道路 状況をもとに確認していたという様子だったようです。この調 査の数日後、待避所の設置等を条件にバスの運行の許可が下り たそうです。この頃、乞田の永山や落合などに電車が通ると考 えた住民は一人もいなかったでしょう。バス路線沿道の住民の うれしさは格別だったと思います。その一例が待避所の設置で す。村をあげての事業として取り組みましたが、用地の借り上 げ工事は地元住民の労働奉仕で進められたとのことです。

筆者は昭和46年、唐木田付近を走るバスの写真をみたことが ありますが、砂利道でバスがすれ違うのは難しいと思われる道 幅の写真でした。バス初開通の頃も同じような道路状況だった のでしょう。非常な苦労をしてバスを通されたことが偲ばれま す。

開通は昭和31年2月16日でした。その日の様子を「多摩丘陵 のあけぼの〜前編〜」から引用すると、 「落合中沢バス停は終点でもあり、折返し地点でもある。小泉 角之助商店の前には朝から地元民がお酒や赤飯など用意して、 一番バスの到着を待っていた。

午前7時一番バスが中沢停留所(落合折返し場所)に到着し た。〜中略〜 始発の式といっても、地元の人達数人が開通を 祝い、運転手さんや車掌さんにお酒や赤飯を出して、この路線 の発展と安全を祈って乾杯をするという簡単なものであった。 現代であればさしずめ運転手さんと車掌さんに花束の贈呈とい うところだろう。

地元住民の喜びを表したささやかな気持ちであった。」 とあります。現在の車社会に慣れた私たちには想像しにくいか も知れませんが、公共交通機関として自分たちの「足」を持つ ことへの強い気持ちを当時の住民の方々は持っていた、そして、 それは逆にそれだけ開けていない地域でもあったことを表して いたと思います。これが私たちが今、住んでいる地域の原点で あると思います。筆者はこの原点をしっかり踏まえることが大 切ではないかと思っています。

<参考文献>
・多摩丘陵のあけぼの(横倉舜三著、多摩ニュータウンタイムズ社発行)
・地図で見る多摩の変遷(財団法人日本地図センター発行)

(プランヴェールせせらぎの丘 田中 純)